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みなさま

ごきげんよろしゅうございます。

 

早速ですが、勝手に誰得?お軸コーナー!

 

四海皆茶人

(しかいみなちゃじん)

 

四海とは、天下すべてを指します。

この句は、茶の湯についての心理の有無などには一切関係なく、同じ席で一服の茶をいただければ、同じ茶人仲間にほかならないといった意味になります。

 

禅宗寺院の日課・茶礼

同じ師の下で、切磋琢磨する修業僧が、一堂で茶を喫することで、同道の士であることを再確認するといった目的があるそうです。

 

では、茶人つながりということで、

覚えておきたい茶人・戦国時代・安土桃山時代編。

 

 

堺の豪商・天王寺屋 津田宗及(つだそうぎゅう)

 

 

堺の豪商・天王寺屋の津田宗達(つだそうたつ)(1504年 – 1566年)の子です。

 

天王寺屋会記は、父・津田宗達から始まり、宗及(そうぎゅう)・宗凡(そうぼん)と書き継がれました。

※天王寺屋会記は、名物道具を知る上でよく登場します☝︎

 

父・津田宗達も茶人で、武野紹鴎の門人でした。

この父からお茶を教わり、

大徳寺大林宗套を学びました。

貿易が盛んな自治都市として栄えていた堺の会合衆(えごうしゅう)のリーダーでもありました。しかしながら、堺は織田信長の支配に置かれ直轄領となります。

※会合衆は堺の有力商人による寺の集会に由来します。

 

その流れにより、織田信長の茶会の参任(一説に茶頭だったとも)。

信長没後は、豊臣秀吉茶頭(さどう)となります。

 

千利休今井宗久とともに、

茶の湯の 天下三宗匠 

と称されました。

 

 

 

 

わび茶の完成者・茶聖 千利休

 

茶道といえば、千利休。(1522〜1591年)利休さま。

幼名は田中与四郎(與四郎)、のちに宗易(そうえき)抛筌斎(ほうせんさい)と号しました。

堺の商家のお生まれで、家業は納屋衆(倉庫業)を営んでいました。

17歳より茶の湯を北向道陳(きたむきどうちん)に学び、南宗寺大林 宗套(だいりんそうとう)に参禅。

堺が織田信長の直轄地となり、堺の豪商茶人であった今井宗久、津田宗及とともに、茶頭として召し抱えられます。

信長没後は、豊臣秀吉茶頭となります。

 

大徳寺 大茶の湯

禁中茶会

北野大茶の湯

 

など、秀吉主催の茶の湯を支えました。

 

『わび』に徹し、簡略化を目指していたことから、茶室の変革なども行いました。

当時、四畳半・三畳台目などの茶室が大半を占めていましたが、天正10年(1582年)、二畳敷茶室・国宝待庵(たいあん)を造りました。待庵は、京都府乙訓郡大山崎妙喜庵内にあります。

待庵については、こちら

 

楽茶碗

竹花入

竹中節茶杓

与次郎作の釜

 

など、利休道具として定着しました。

 

天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため、居士号 利休 を勅賜されました。

この年、黄金の茶室を設計。

 

 

 

 

また、秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟大坂城を訪れた際、豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告されたと言うエピソードもあります。

 

天正19年(1591年)、利休さまは突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、聚楽屋敷内で切腹を命じられます。

理不尽すぎる・・・

 

そして、利休忌にはお軸に遺偈(ゆいげ)が掛けられます。

 

人生七十(じんせいしちじゅう)
力囲希咄(りきいきとつ)
吾這寶剣(わがこのほうけん)
祖佛共殺(そぶつともにころす)
提(ひっさぐ)る
我得具足(わがえぐそく)の 一太刀(ひとつたち)
今此時(いまこのとき)ぞ
天に抛(なげうつ)

 

 

コミックモーニング「へうげもの」より

 

 

千利休には、

利休七哲(りきゅうしちてつ)

と呼ばれる弟子がいます。

 

蒲生氏郷 (がもううじさと)
牧村兵部 (まきむらひょうぶ)
芝山監物 (しばやまけんもつ)
高山右近 (たかやまうこん)
瀬田掃部 (せたかもん)
細川三斎 (ほそかわさんさい)
古田織部 (ふるたおりべ)

 

※それより古い呼び名は、利休七人衆。

瀬田掃部→前田利長

 

 

 

利休の伝書を残した高弟 山上宗二(やまのうえそうじ)

 

 

 

堺の豪商・山上宗二(やまのうえそうじ)天文13年(1544年) 〜 天正18年(1590年)。

千利休に20年間茶の湯を学んだ高弟です。

このお方も、戦国の世に翻弄された不幸な茶人といます。

 

茶匠として豊臣秀吉に仕えていましたが、秀吉の怒りを買い、浪人することになってしまいます。のちに前田利家に仕えますが、再び秀吉を怒らせてしまい、高野山へ逃れ、その後は小田原に下って北条氏に仕えました。

利休さまの仲裁により秀吉との面会が叶い、秀吉は宗二を赦免し再登用しようとしましたが、茶席において仕えていた北条幻庵に義理立てしたため、秀吉の怒りを買ってしまい、打ち首にされてしまいました。

 

怒らせすぎ・・・。

 

山上宗二記(やまのうえのそうじき)

天正16年(1588年)に記した茶道具の秘伝書で、茶道史において、天正年間の堺衆の茶の湯の基本史料となっています。

 

 

 

 

本来なら、古田織部もこの時代に入るのですが、江戸時代にまたいでいる重要茶人なので、また次回にしておきます。

 

白虎 ビジネス

いいわけするな。

 

このブログは、茶道を導入するにあたり、『知れば知るほど、もっと楽しくなる』ことをテーマにお届けしております。

みなさまがより充実した茶道ライフが続けられますよう、微力ながらお手伝いができればと願っております。

 

次は、おぼえておきたい茶人・江戸時代編。

できたらいいな♪

みなさまに、感謝です✨

では!

 

 

 

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